对于那些学习日语,想要成为一名日语翻译的人来说,一定要掌握好日语的每一个发音。如果我们作为一名翻译,不能发音准确的话,别人就很难理解我们的意思。所以,学会发音是第一步,我们还是要自己在以后的学习中慢慢钻研,这样才能更好的学好发音。下面就是一些发音的技巧,我们可以看看。

私が翻訳するときのモットーのようなものがある。それが表題の「原文は親切に読む。訳文はいじわるに読む」だ。別の言い方をすれば、↓のようになる。

我翻译时有一个座右铭,那就是标题所写的“读原文要恳切,读译文要刁钻”。换种说法就是下面的意思。

翻訳者は、原著者の代弁者として、原著者の意図が読者に正しく伝わるように橋渡しをすることが仕事だ。だから、まず、書いた人が言いたかったことを最大限読み取る。その上で、原著者が言いたかったことが分かるように、できれば、言いたかったこと以外の解釈が成り立たないように書くということが翻訳者のやるべきことだと思う。

翻译者的工作是要当原作者的代言人,搭好桥梁将原作者的意图正确传达给读者。因此,首先要最大限度理解写作人想说的。在此基础上的译文要让读者理解原作者想说的,可能的话不要让其想说的内容以外的解释成立,这是翻译者该做的。

そのために、原文は、書いた人の立場でできる限り親切に読む。逆に、自分が書く訳文は、意図した意味合い以外にとれないか、なるべくいじわるに読む。

为此,就要以写作者的立场尽可能恳切地去读。反之,对自己的译文则要尽量刁钻地去读,看看是否有原文意思之外的解释。

翻訳フォーラムなどでの議論でも、原文解釈の段階で「ああもとれる」「こうもとれる」「こういう取り方をする人だっている」という話が出ることがある。その中で、原著者が書きたかった内容はどれなのかを判断するのが、翻訳者としての解釈。ところが、ときどき、「いろいろに取れるのだから考えても仕方がない」とか「自分の解釈のようにとる人がいるかもしれないから、自分の解釈は正しい」というような展開を見ることがある。

在翻译论坛的讨论中对原文的解释阶段也有“可以这么理解”“也能那么理解”“还有人理解成这样”。在此当中判断哪种才是原作者想表达的内容,那就是翻译者的解释。然而时不时也能看到“反正能做各种解释,想也没用”,又或者“可能也有人会采用类似自己的解释,那我的解释就没错”之类的展开。

そんな風に原文をいじわるに読んでも、書き手が下手だ、原文が悪文だと愚痴のタネにこそなれ、翻訳の役にはあまり立たない。

如果像这样刁钻地去读原文,就会让你发牢骚说别人写得不好啦,原文拙劣啦什么的,对你的翻译无益。

訳文を書くときに、そういう別解釈がなるべく減るようにする役には、多少、たつかもしれないが。

写译文的时候尽量减少其他解释的做法还是有些帮助的。

また、訳文の検討でも、「原著者の意図のように訳文を解釈することが可能だから、この訳文でいいんだ or 十分なんだ」といった主張もときおり見かける。ひどいケースでは、「ちょっとわかりにくいかもしれないが、考えれば~という意味であることがわかるはず。だからいいんだ」などという主張も耳にしたことが、複数回、ある。

此外针对译文的探讨也偶或看到“译文只要能解释成原作者的意图就行,或者说足够了”等主张。我听过更过分的说法是“可能是有些难理解,不过只要想想就应该能明白……的意思。这就行了嘛”,还不止一次听到。

原文を読んだ人間が訳文を親切に解釈したのと同じ解釈を、訳文だけを読まされる読者にしろというのは、かなり無体な要求だと思う。少なくとも、カネをもらうプロのすることではない。だましだまし動かせばなんとか動くという自動車が売り物になるはずがないのだから。「考えればわかる」のなら、それを考え、「考えなくてもわかる」訳文にするのがプロの仕事。

读过原文的人对译文的恳切解释,要让只看译文的读者也做相同的解释,这真是蛮不讲理。至少不是靠这行赚钱的职业人该做的。又不是卖汽车想着能蒙混着开动总能动,要“想想就能明白”,还不如去思考,写出“不想也能懂”的译文,这才是专业人士的工作。

「考えればわかる」は誤訳に等しいと私は考える。

我认为“想想就能明白”的想法等同于误译。

冒頭の「原文は親切に読む。訳文はいじわるに読む」は、↓のように言い換えられる。

开头的“读原文要恳切,读译文要刁钻”可换成下面的说法。

•ソース言語は、真意をくみ取る読み方

•ターゲット言語は、なるべく別の意味にとろうとする意地の悪い読み方

•原始语言要带着真心体察地去读

•目标语言要尽量恶意挑刺读出别的含义。